パンチャシラってなあに?

インドネシアといえば、よく「パンチャシラ」(Pancasila)が大事だ、パンチャシラがあるから国がまとまっているんだ、という話を聞くと思います。このパンチャシラというのは、いったい、何なのでしょうか。

▼パンチャ+シラ=五原則

パンチャシラというのは、「パンチャ」(panca)と「シラ」(sila)という、サンスクリット語起源の言葉の合わさったものです。

『パンチャ」が数字の5、「シラ」が原則という意味で、直訳すると五原則、ということになります。一般に、建国五原則、と訳されます。

▼パンチャシラの始まり

オランダ領東インドの大半がインドネシアとしての独立を1945年8月17日に宣言する前、独立運動のリーダーで後に初代大統領になるスカルノが1945年6月1日の独立準備調査会の席で発表した五原則が現在の「パンチャシラ」の原型です。

その原型をもとに、スカルノを含む9人の識者が討議し、1945年6月22日に「ジャカルタ憲章」(Piagam Jakarta)という形にまとめられました。そして、独立宣言直後の8月18日、細かいが重要な訂正の後に、現在の「パンチャシラ」、建国五原則として定められたのでした。

▼パンチャシラの5つの原則

現在の、具体的なパンチャシラの5原則は以下のとおりです。

第1原則:唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
第2原則:公正で文化的な人道主義 (Kemanusiaan Yang Adil dan Beradab)
第3原則:インドネシアの統一 (Persatuan Indonesia)
第4原則:合議制と代議制における英知に導かれた民主主義 (Kerakyatan Yang Dipimpin oleh Hikmat Kebijaksanaan, Dalam Permusyawaratan / Perwakilan)
第5原則:全インドネシア国民に対する社会的公正 (Keadilan Sosial bagi seluruh Rakyat Indonesia)

(出所)https://steemit.com/independence/@khairulmuammar/pancasila-as-the-basis-of-the-state-indonesia

▼スカルノが唱えたパンチャシラの原型

ちなみに、スカルノが最初に唱えた原型は、以下のようなものでした。

第1原則:インドネシア民族主義 (Kebangsaan Indonesia)
第2原則:国際主義ないし人道主義 (Internasionalisme)
第3原則:全員一致の原則ないし民主主義 (Musyawarah Mufakat)
第4原則:社会的繁栄 (Kesejahteraan Sosial)
第5原則:唯一神への信仰 (KeTuhanan yang Berkebudayaan)

今のバージョンとはビミョーに違いますね。

▼一番もめたのは「唯一神への信仰」

パンチャシラを定めるにあたって、最ももめたのは、「唯一神への信仰」でした。オランダ領東インドの人口の9割近くを占めるイスラム教徒への配慮をめぐるもので、当初、スカルノ案で第5原則に置かれたのが第1原則へ変更されました。

さらに、ジャカルタ憲章では「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った唯一神への信仰」という文言が入ったのですが、東部地域のキリスト教徒の指導者たちが特定宗教に関する内容だとして反対し、結局、その文言は省かれました。

しかし、イスラム教指導者のなかには、それを受け入れ難く思う者がおり、「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った」という文言を復活させようとする動きが、後のダルル・イスラム運動といった1950年代の地方反乱にも影響を与えていきました。

今でも、現在のパンチャシラはイスラムを軽視していてけしからん、イスラム法を適用せよ、と主張する人々がいますが、その源流の一つは、「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った」という文言を復活させようとした動きの流れに連なるとも見られています。

▼パンチャシラを強制したスハルト政権

インドネシアの学校教育では、パンチャシラを授業科目として学ぶなど、建国五原則、というか国家イデオロギーとして国民に徹底させる方策を採ってきました。学校教育を受けた人々の多くは、今もパンチャシラを暗唱できるのではないでしょうか。

1985年、当時のスハルト政権は、すべての社会団体がパンチャシラを存立原則として受け入れるように法制化して、それに違反する社会団体の活動を禁止する措置をとりました。このため、イスラム団体などは、「イスラム教の上にパンチャシラをおくことはできない」として、反対しました。

その頃、パンチャシラの強制に反対する勢力は、華人系銀行爆破やボロブドゥール寺院爆破など、過激なテロ行為を繰り返しました。

当時のスハルト大統領は、反イスラムと目されていました。その後、スハルト自身がイスラム勢力に近づくなどの大きな変化はあったのですが・・・(この辺の話は大事なので、また機会を改めて解説します)。

1998年のスハルト政権崩壊後、パンチャシラ強制が緩んだことで、国外に逃亡していた過激派などが帰国し、イスラム法適用を求める運動を再開、それが現在に至るまで続いています。

▼パンチャシラの包含力が多様性の中の統一にマッチ

先の写真を見ると、パンチャシラを胸に掲げた鷲(ガルーダ)は、「多様性の中の統一」と書かれた表示を両足で掴んでいますね。

多様性の中の統一を国是とするインドネシアでは、パンチャシラ自体が様々なものを包含する内容となっているのです。

芯となる硬い原則を徹底させるのではなく、様々なものを「原則に当てはまる」として取り込んでいけるものがパンチャシラで、だからこそ、国民をまとめる呪文のような存在になったのではないでしょうか。

今から考えると、スハルトによるパンチャシラの強制は、パンチャシラを異物(敵)を排除する手段として使ったのかもしれません。でも、パンチャシラ自体は、むしろ様々なものを包含するもので、その曖昧さこそが、多様性の中の統一の実現にプラスだったのだろうと思います。

しかし、歴史的にみると、イスラム教徒にとっては、彼らが多数派であることを尊重していないと感じるパンチャシラへの不満は根強いものがあります。

民族主義vsイスラムと二項対立で捉えるのは単純すぎますが、このイスラム教徒の潜在的な不満は、多数派のイスラムを政治利用して権力を握りたい勢力にとっては、格好の材料の一つとなることでしょう。