可愛い!?2018年アジア大会マスコット

2018年アジア大会はインドネシアの首都ジャカルタと南スマトラ州の州都パレンバンで開かれ、日本でも、東京オリンピックの前哨戦、予行演習的な意味合いで、盛んに報道されていましたよね。

このアジア大会のマスコットですが、極楽鳥のビンビン(Bhin Bhin)、シカのアトゥン(Atung)、そしてスマトラサイのカカ(Kaka)の3人です。

ビンビンは戦略性を、アトゥンは速さを、カカは力強さを象徴しています。

そして、ビンビンは、パプアのアスマット地方の模様をかたどったベストを着ているので、インドネシア東部を象徴しています。

アトゥンは、バティック柄の腰巻をしているので、ジャワを含むインドネシア中部を象徴しています。

そして、カカは、花柄のソンケットをあしらった襟巻きをして、スマトラを含むインドネシア西部を象徴しています。

Bhin Bhin, Atung, Kakaと並べると、インドネシアの国是ともいえる標語「多様性のなかの統一」(Bhineka Tunggal Ika)を表していることが分かります。

今回のこの3人、歴代のマスコットと比べても、サイコーに可愛いと思うのですが、皆さんはどう感じられましたか。

インドネシア最初の独立宣言はゴロンタロ

実は、インドネシアの独立宣言が最初に行われたのは、スラウェシ島北部のゴロンタロでした。今は、ゴロンタロ州ゴロンタロ市となっているところです。

誰が宣言したかというと、ゴロンタロでの反植民地運動の指導者だったナニ・ワルタボネ(Nani Wartabone)という人でした。1907年にゴロンタロのスワワという村に生まれ、1986年に亡くなりました。彼はのちに、インドネシア国民英雄の称号をもらいます。

(出所)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/id/thumb/b/b9/Nani_Wartabone.jpg/220px-Nani_Wartabone.jpg

▼独立宣言に至る経緯

1942年1月22日、日本軍の進軍で形勢不利となったオランダ軍は、ゴロンタロの街を焼いて、ポソへ逃れようと、ゴロンタロの港の船とコプラの倉庫に火を放ちました。ナニ・ワルタボネは、「オランダとの戦いの時は来た」として、翌1月23日、味方の軍勢を率いてゴロンタロ港へ向かい、関与したオランダ高官全員を逮捕した後、次のように演説したのでした。

1942年1月23日、ここにいる我々インドネシア民族はすでに独立し、自由で、いかなる民族による支配からも解放された。旗は紅白旗、国歌はインドネシア・ラヤ、オランダ政府はすでに国民政府に取って代わられた。

ナニ・ワルタボネは、議会機能を持つゴロンタロ政府指導部を組織し、住民を動員して、ゴロンタロ域内でのインドネシア独立を維持させようとしました。

▼日本軍にも連合軍にも不服従を貫く

ほどなく、日本軍がゴロンタロへ進軍し、ナニ・ワルタボネはインドネシア独立を支持してくれるものと期待したのですが、現実は逆でした。日本軍は紅白旗の掲揚を禁止し、住民に日本への従順を求めました。

ナニ・ワルタボネは日本軍に捕らえられ、1944年6月まで、北スラウェシのマナドの刑務所に拘留されました。そして、モロタイ島の刑務所、ジャカルタのチピナン刑務所へと移送されました。

彼は日本軍に対しても、その後やってきた連合軍(オーストラリア軍)に対しても、服従を拒否し続けたためです。彼が刑務所から釈放されたのは、1949年12月23日、すなわち、国連がインドネシアを国家として認知したときでした。

▼その後のナニ・ワルタボネ

刑務所から出所した後も、ナニ・ワルタボネの反植民地運動に変化はありませんでした。その後も、ゴロンタロを支配しようとする外部勢力との闘争を続け、インドネシア共和国への忠誠を誓い続けました。

戦闘の時代が終わると、ナニ・ワルタボネはゴロンタロを代表する政治家としてゴロンタロの要職を務めましたが、中央政界とは縁遠い生活を続けました。彼がインドネシア国民英雄の称号を受けたのは、死後17年経った2003年のメガワティ政権のときでした。

一貫して外部勢力への服従を拒み、ゴロンタロを守り続けた一方、質素な生活を続けたナニ・ワルタボネは、今でも地元の人々から愛される人物です。

最初にインドネシアの独立宣言を行った人物は、決してそれを自分の名誉や功績として喧伝することなく、静かに一生を終えたのでした。

インドネシアの独立はいつか?

▼8月17日はインドネシア独立記念日?

インドネシアの独立記念日といえば、インドネシアの人のほとんどは、8月17日と言います。日本が敗戦を迎えた終戦記念日の2日後です。

独立記念日というと、あたかも、1945年8月17日に、当時のオランダ領東インドの全土で、独立を祝ったかのようなイメージがあると思います。でも、1945年8月17日にインドネシアの独立を知っていたかというと、実は、多くの人はその時点では知らなかったのです。

▼独立記念日ではなく、独立宣言記念日

正確にいうと、8月17日は独立記念日ではなく、独立宣言記念日なのです。すなわち、1945年8月17日、のちに大統領となるスカルノと副大統領になるハッタの名の下に、インドネシアの独立が宣言されたのでした。

(出所)https://id.wikipedia.org/wiki/Berkas:Indonesia_declaration_of_independence_17_August_1945.jpg

独立宣言の文言は、次のような、とてもシンプルなものでした。

宣言
我らインドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力委譲その他に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
ジャカルタ、05年8月17日
インドネシア民族の名において
スカルノ / ハッタ

え、これだけ? という感じですよね。

▼日本軍の影響があった

よく見ると、1945年ではなく、05年となっています。これは、皇紀2605年を表していると見られます。1941年から占領してきた日本軍の影響によるものでしょう。

実際、この独立宣言を前に、1945年8月16日夜から未明にかけて、前田海軍少将の家でスカルノやハッタらを交え、独立宣言の打ち合わせを行っていたとされます。独立宣言を行なった場に、前田海軍少将ら日本軍関係者も同席していたという話もあります。

▼独立宣言の後、独立戦争

このあと、独立宣言がなされたということを、オランダ領東インドの全土へ広く伝えていくという段階へ移るのでした。そして、舞い戻ってきたオランダ軍との間で、1945〜1949年に独立戦争を戦うことになるのです。

真の意味でインドネシアが独立したのは、独立戦争終了後、国連が国家としての存在を認めた1949年12月27日、という解釈もあります。

ただし、インドネシアが1945年8月17日を独立の起点としたいという気持ちもよくわかります。

▼1945年8月17日は最初の独立宣言ではなかった?

しかし、実は、1945年8月17日が最初の独立宣言ではありませんでした。それよりもずっと早く、独立宣言がなされていたのです。それは、どこで、どのようなものだったのでしょうか。

この話は次回のブログで。




パンチャシラってなあに?

インドネシアといえば、よく「パンチャシラ」(Pancasila)が大事だ、パンチャシラがあるから国がまとまっているんだ、という話を聞くと思います。このパンチャシラというのは、いったい、何なのでしょうか。

▼パンチャ+シラ=五原則

パンチャシラというのは、「パンチャ」(panca)と「シラ」(sila)という、サンスクリット語起源の言葉の合わさったものです。

『パンチャ」が数字の5、「シラ」が原則という意味で、直訳すると五原則、ということになります。一般に、建国五原則、と訳されます。

▼パンチャシラの始まり

オランダ領東インドの大半がインドネシアとしての独立を1945年8月17日に宣言する前、独立運動のリーダーで後に初代大統領になるスカルノが1945年6月1日の独立準備調査会の席で発表した五原則が現在の「パンチャシラ」の原型です。

その原型をもとに、スカルノを含む9人の識者が討議し、1945年6月22日に「ジャカルタ憲章」(Piagam Jakarta)という形にまとめられました。そして、独立宣言直後の8月18日、細かいが重要な訂正の後に、現在の「パンチャシラ」、建国五原則として定められたのでした。

▼パンチャシラの5つの原則

現在の、具体的なパンチャシラの5原則は以下のとおりです。

第1原則:唯一神への信仰 (Ketuhanan Yang Maha Esa)
第2原則:公正で文化的な人道主義 (Kemanusiaan Yang Adil dan Beradab)
第3原則:インドネシアの統一 (Persatuan Indonesia)
第4原則:合議制と代議制における英知に導かれた民主主義 (Kerakyatan Yang Dipimpin oleh Hikmat Kebijaksanaan, Dalam Permusyawaratan / Perwakilan)
第5原則:全インドネシア国民に対する社会的公正 (Keadilan Sosial bagi seluruh Rakyat Indonesia)

(出所)https://steemit.com/independence/@khairulmuammar/pancasila-as-the-basis-of-the-state-indonesia

▼スカルノが唱えたパンチャシラの原型

ちなみに、スカルノが最初に唱えた原型は、以下のようなものでした。

第1原則:インドネシア民族主義 (Kebangsaan Indonesia)
第2原則:国際主義ないし人道主義 (Internasionalisme)
第3原則:全員一致の原則ないし民主主義 (Musyawarah Mufakat)
第4原則:社会的繁栄 (Kesejahteraan Sosial)
第5原則:唯一神への信仰 (KeTuhanan yang Berkebudayaan)

今のバージョンとはビミョーに違いますね。

▼一番もめたのは「唯一神への信仰」

パンチャシラを定めるにあたって、最ももめたのは、「唯一神への信仰」でした。オランダ領東インドの人口の9割近くを占めるイスラム教徒への配慮をめぐるもので、当初、スカルノ案で第5原則に置かれたのが第1原則へ変更されました。

さらに、ジャカルタ憲章では「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った唯一神への信仰」という文言が入ったのですが、東部地域のキリスト教徒の指導者たちが特定宗教に関する内容だとして反対し、結局、その文言は省かれました。

しかし、イスラム教指導者のなかには、それを受け入れ難く思う者がおり、「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った」という文言を復活させようとする動きが、後のダルル・イスラム運動といった1950年代の地方反乱にも影響を与えていきました。

今でも、現在のパンチャシラはイスラムを軽視していてけしからん、イスラム法を適用せよ、と主張する人々がいますが、その源流の一つは、「イスラム教徒がイスラム法に従う義務を伴った」という文言を復活させようとした動きの流れに連なるとも見られています。

▼パンチャシラを強制したスハルト政権

インドネシアの学校教育では、パンチャシラを授業科目として学ぶなど、建国五原則、というか国家イデオロギーとして国民に徹底させる方策を採ってきました。学校教育を受けた人々の多くは、今もパンチャシラを暗唱できるのではないでしょうか。

1985年、当時のスハルト政権は、すべての社会団体がパンチャシラを存立原則として受け入れるように法制化して、それに違反する社会団体の活動を禁止する措置をとりました。このため、イスラム団体などは、「イスラム教の上にパンチャシラをおくことはできない」として、反対しました。

その頃、パンチャシラの強制に反対する勢力は、華人系銀行爆破やボロブドゥール寺院爆破など、過激なテロ行為を繰り返しました。

当時のスハルト大統領は、反イスラムと目されていました。その後、スハルト自身がイスラム勢力に近づくなどの大きな変化はあったのですが・・・(この辺の話は大事なので、また機会を改めて解説します)。

1998年のスハルト政権崩壊後、パンチャシラ強制が緩んだことで、国外に逃亡していた過激派などが帰国し、イスラム法適用を求める運動を再開、それが現在に至るまで続いています。

▼パンチャシラの包含力が多様性の中の統一にマッチ

先の写真を見ると、パンチャシラを胸に掲げた鷲(ガルーダ)は、「多様性の中の統一」と書かれた表示を両足で掴んでいますね。

多様性の中の統一を国是とするインドネシアでは、パンチャシラ自体が様々なものを包含する内容となっているのです。

芯となる硬い原則を徹底させるのではなく、様々なものを「原則に当てはまる」として取り込んでいけるものがパンチャシラで、だからこそ、国民をまとめる呪文のような存在になったのではないでしょうか。

今から考えると、スハルトによるパンチャシラの強制は、パンチャシラを異物(敵)を排除する手段として使ったのかもしれません。でも、パンチャシラ自体は、むしろ様々なものを包含するもので、その曖昧さこそが、多様性の中の統一の実現にプラスだったのだろうと思います。

しかし、歴史的にみると、イスラム教徒にとっては、彼らが多数派であることを尊重していないと感じるパンチャシラへの不満は根強いものがあります。

民族主義vsイスラムと二項対立で捉えるのは単純すぎますが、このイスラム教徒の潜在的な不満は、多数派のイスラムを政治利用して権力を握りたい勢力にとっては、格好の材料の一つとなることでしょう。




インドネシア語の発音や抑揚は同じではないけれど

同じインドネシア語でも、きれいなインドネシア語と聞き取りにくいインドネシア語があります。

▼きれいなインドネシア語はアナウンサー

きれいなインドネシア語を話すと言えば、それはテレビやラジオでニュースを読むアナウンサーでしょうか。日本でも、そうですよね。

ずいぶん昔ですが、テレビのニュースからとてもきれいなインドネシア語が聞こえてきました。言葉の一つ一つがはっきり聞こえて、とても聞きやすい。どんなアナウンサーかな?と思ってテレビを見たら、パプアの方でした。

前のブログでも書きましたが、インドネシア語は新しくつくられた言語で、大半のインドネシア人は自分の母語(地方語)とのバイリンガル生活が普通です。

すると、どうなるでしょうか。

▼母語(地方語)の影響を受けるインドネシア語

ジャワ族の人の話すインドネシア語は、ジャワ語の影響が出てきます。単語の最初にNの音が入りがちになったり、ジャワ語で話すのと同じ抑揚でインドネシア語を話したり、インドネシア語で話している途中でジャワ語が混じったり・・・。それに慣れないと、なかなか聞き取れないです。

マカッサルに住んでいたときも、やはり、マカッサル族の話すインドネシア語には、マカッサル語の抑揚が入ってきます。その典型は、間延びしたような抑揚で、「あちら」というインドネシア語は通常「サナ(sana)」というのですが、マカッサルでは「サーナ」となります。ジャワ族の人がそれを聞いたら、田舎者っぽく聞こえるかもしれません。

▼Eは「ウ」か「エ」か

インドネシア語のEの音は「エ」ではなく「ウ」に近い音になる、と習うかもしれません。たとえば、「返す」のインドネシア語はkembaliですが、普通は「クンバリ」と発音すると習います。ただし「ク」は軽い発音です。でも、東インドネシアへ行くと、普通に「ケンバリ」という発音を聞くことが多いのです。

このEの発音をめぐっては、人名や地名をどう発音するか、それを日本語のカタカナ表記にするときにどうするか、いろいろ悩ましいものです。

東南スラウェシ州の州都Kendariは、クンダリなのかケンダリなのか、誰が発音しているかによって異なるのです。首都ジャカルタで聞くと「クンダリ」、東南スラウェシ州で聞くと「ケンダリ」だったりします。

▼それでも通じ合える能力がすごい

このように、種族や地域によってインドネシア語の発音や抑揚が色々あるのですが、彼らの会話を見ていると、ちゃんと通じているようなのです。

それを可能にしているのが、ボディーランゲージを含む表現能力のすごさです。

話しているときの表情の豊かさ、手ぶり身振り、ちょっとした仕草、そういったものを伝え、敏感に感じる能力がとても優れていると思いました。

ですから、私たちが彼らとコミュニケーションをとるとき、私たちのちょっとした仕草や表情から、彼らは色々なものを読み取っているのではないかと感じます。

昔、マカッサルに住んでいたときの当時3歳の私の娘とお手伝いさんとの会話。

娘は幼児の日本語で話し、それに対してお手伝いさんはインドネシア語で答える、それがずっと続くのですが、なぜか、ちゃんとお互いのコミュニケーションができているのです。

もちろん、お手伝いさんは日本語を全く知りませんし、娘はインドネシア語をただの音としてしか認識していませんでした。

純粋に、すごいなあと思いました。